息子が生後2ヶ月を過ぎたころのことです。
リビングで、ふと部屋の端から端へ移動しました。用事があったわけでもない、なんということのない移動です。
そのとき、気づきました。
視線が、ついてきている。
そばにいた妻が、こう言いました。
「見てるよ」
はっきり分かる瞬間は、来ませんでした
先に、正直なところを書いておきます。
確信はありません。
「目で追うようになった気がする」——今でも、このくらいの感覚です。たまたまそっちを向いていただけかもしれない。偶然だったのかもしれない。
育児書やネットの情報を読んでいると、「◯ヶ月になったら、こういうことができるようになります」と書かれています。
読んでいるときは、ある日できるようになるものだと思っていました。
でも実際は違いました。「できた日」なんて、どこにもないんです。
なんとなくそう見える日があって、翌日はよく分からなくて、また別の日に「あ、やっぱり見てるな」と思う。その繰り返しの中で、気づいたら当たり前になっている。
発達って、こういうものなのかと思いました。線を引けるような変化ではなく、ゆっくりした濃淡。
それまでの2ヶ月、どう感じていたか
ここからが、この記事で書いておきたいことです。
視線が返ってきたことに、私はけっこう動揺しました。なぜそんなに動いたのかを考えてみると、それまでの2ヶ月の感覚に行き当たります。
- 守るべき存在であり、お世話をする対象だった
- 必死すぎて、それ以上のことを考える余裕がなかった
誤解のないように書きますが、かわいくなかったわけではありません。生まれた瞬間から、かわいかった。
ただ、毎日が「やること」の連続でした。ミルクをあげる。おむつを替える。ゲップを出す。寝かせる。泣いたら抱く。
こちらが一方的に、与え続ける時間です。そこに「やりとり」はありませんでした。
そして何より、必死でした。この子がどう感じているかを想像する余裕なんて、正直なところありませんでした。
「人になってきた」と思った
だから、視線がついてきたとき、こう思ったんです。
「人になってきたな」
……我ながら、ひどい言い方だとは思います。じゃあそれまでは人じゃなかったのか、という話になりますから。
でも、そう感じてしまったのは事実です。だから、そのまま書いておきます。
一方通行が、初めて返ってきた
あとから考えると、こういうことだったと思います。
それまでの息子は、私にとって「守る対象」でした。こちらが動いて、こちらが与える。相手は受け取るだけ。
ところが、視線が追いかけてきた瞬間に、向こうからこちらへ、何かが返ってきた。
私を見ている。私がどこにいるかを、気にしている。つまり、相手の中に「私」がいる。
お世話をする対象から、やりとりをする相手に変わった——その変化を、私は「人になってきた」と表現したんだと思います。
実感は、一度わいて終わりじゃなかった
このブログでは、「父親になった実感」について、何度か書いてきました。
- 妊娠中:実感がわかないと書いた
- おさがりを確認した日:妻の準備を見ても、まだわかなかった
- 収納を整理した日:少しだけ、近づいた気がした
- 生まれた日:ようやく実感がわいたと書いた
生まれた時点で、この話は終わったと思っていました。実感はわいた。父親になった。それでおしまいだと。
でも、違いました。
実感は、そのあとも更新され続けています。
視線が返ってきたことで、また一段、何かが変わりました。たぶんこの先も、笑ったとき、声を出したとき、名前に反応したときに、同じことが起きるのだと思います。
父親になるというのは、一回きりの出来事ではなかった。少しずつ、何度も、なっていくものらしいです。
まとめ
「目で追うようになった気がする」——たったそれだけのことです。
写真に残るわけでもないし、記念日になるわけでもない。健診で報告するような話でもありません。
でも、私にとっては2ヶ月でいちばん大きな変化でした。だから、忘れないうちに書いておきます。
もし今、生まれたばかりの赤ちゃんと向き合っていて、「かわいいけど、まだよく分からない」と感じている人がいたら。
そのうち、向こうから返ってくる日が来ます。
それは、はっきり分かる日ではないかもしれません。「そんな気がする」くらいの、小さな変化かもしれません。でも、確実に変わります。
※発達のペースは子どもによって違います。気になることがあれば、乳幼児健診やかかりつけの小児科で相談してください。


